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南池袋遺跡見学会 ー2023年2月4日ーかつて東洋乾板株式会社がありました場所では、2021年8月から「南池袋遺跡(南池袋2丁目C地区再開発・南街区)」の発掘調査が行われ、このたび、見学会が開かれました。周辺の埋蔵文化財調査は、「南池袋遺跡」と呼ばれ、江戸時代の雑司ヶ谷村の範囲に位置します。 この調査では、縄文時代や江戸時代の生活跡が見つかったほか、東洋乾板株式会社の研究所の建物の基礎部分などが見つかりました。 豊島区教育委員会によれば、当日は、1400人を超える多くの方々が来場し、大盛況となったとのことです。 この調査区域は、東洋乾板があった敷地の東側部分で、昭和2年に新築された研究所があった場所が含まれます。建物解体後は駐車場として使われていたため、地中埋設物が温存されたと思われます。 なお、東洋乾板の敷地の西側部分(旧工場、新工場などの場所)には、都市計画道路環状第5の1号線が建設されており、2005年に東京都埋蔵文化財センターから調査報告書が公表されています。
東洋乾板株式会社は、大正8年に設立され、当初は、工場、写場、ガラスクリーニング室、事務所、ガラス貯蔵室、食堂、宿直室など合計180坪の建物を設置して、生産を開始しました。 その後、大正15年に大日本セルロイド社から出資を受け、昭和2年に敷地内に新工場と新研究所を増設しています。 「東洋乾板回想記」(梅本貞雄氏)では、新工場・新研究所の建設時の様子を次のように記しています。 (前略) 作間政介氏は、まず工場設備の準備に着手した。研究所、工場増築、志村のフイルム試験所等の建設等のことで、警視庁に出頭して許可の指令をもとめたのである。すると思いがけなくも、一大難関に遭遇した。それは東洋乾板の敷地が、住宅区域に編入されていたので、勅令によって現存建物建坪の5割以上の増築は許可されないという規則が現存していたからである。 これでは設計通りの建坪増築は、まつたく不可能で、それが判明したときは作間政介氏も一撃を喫した。 しかし、解釈上、許容される条件がある。その条件は平家建の平面坪を云うもので、2階建のときは建坪倍増の建造を、許容されると云うのである。そこで応急、その設計を変更して、「乾板工場」「研究所」の双方ともに2階建とすることに、急ぎの処置を採ることになったが、欧米における乾板工場の構造に、2階建工場が存するや否や、それがまた心配になってきた。 そこで写真界の長老鎌田弥寿治先生について、世界各国の写真工場について調査してもらったところ、この方面に対する調査の行き届いていた鎌田先生から、英国の某社に、2階建の乾板工場があることが分って、ほっと胸を撫でおろした。 かつまた、2階構造でも、機構さえ完備すれば、毫も製造上の障碍とはならないことを確認したのである。そこで、慎重に設計を更新したものをもって、ようやく出願許可を得るにいたった。 乾板工場の構造を2階建に変更することで不測の障害を生じたが、かえってそれが幸運をもたらした。 というのは、平面建坪は、現存建物の5割増であるが、2階建のため、倍大となり、結局旧工場と同一の建坪、すなわち、全工場は一躍2倍の規模に達し、拡張新計画の乾板増産に適するものとなったからである。 新工場の構造は、鉄筋コンクリートで、設計及び工事監督は、早大教授内藤多仲工博および助手十代田三郎教授に依嘱し、工事は株式会社鴻泄組に依頼することとなった。(工場の地鎮は昭和2年1月末で、その半歳後ほぼ竣工の域に達している。) (中略) 東洋乾板では、研究部を創設した。 前述のごとく研究奨励金の下附をうけた結果、光学的諸器械、感光乳剤製造の最新様式の器具を完備し、大いにわが写真工業上の発展に資せんとしたのであった。 その感光計も、シャイナー、ハーター、エンド、ドリフイールドを始め、エダー、ヘヒト、センシトメーター等の種類を網羅した。当詩これは研究者間に喧伝され、見学と称して来訪される人も多かった。 研究室は、工場と棟を異にして、日々の操作とは混同するところがなかった。社としても、篤学者の参観を歓迎した。 それのみでなく、研究室上階に、ホールを設けて、多人数の集会場にあて、写真界各種の会合に、喜んで提供することにした。 暗室も3ヵ所設けられ、講話実験は、十分の設備を整えた。 丁度、産業立国、国産品愛用の声が高い折柄で、全国の写真家と協力し、国産奨励の実を挙げるべく努力した。 (中略) 新工場は、昭和2年1月末に、地鎮祭を執行して以来、工事を急ぎ順調の進行を見ていたが、約半歳後にはほぼ竣工の域に達したため、機械据付、電気配線、風管、火管の設置等を督励した結果、木造の研究室は初夏より使用されたのである。 コンクリート建の新工場も、同年末から使用し始め、乾板製造を旧工場と併行して、行いうる段階となったが、工場建物の屋根、天井、壁、床等は、すべて絶縁材料を装置して寒暑の影響を完全に遮断し、防水耐湿により微生物の発生も少ないようにし、暗室工場内の荷揚機、換気装置等に意が用いられた。 新工場階上と、旧工場暗室との間に、渡り廊下を作って連絡し、作業上の交通も便にしてあった。 新工場の地階は、乳剤調整乾板塗布、乾燥を行い、階上は整理、裁断、包装、空気調節等に用いた。研究所は、階下を乳剤研究、光学測定、各種実験にあて、階上は撮影、講堂図書室等に使用したのである。 ――そして、生産は、新旧工場共々、高橋慎二郎氏の指導の下に、まったく同一の方法で乳剤を仕込み、塗布乾燥ともに行い、一体となって努力した。 (後略) |