3.東洋乾板株式会社の設立

 高橋慎二郎は、資産家の菊池恵次郎の支援を得て、1919年(大正8年)2月11日、現在の東京都豊島区雑司雑ヶ谷に、東洋乾板株式会社を設立し、その取締役技師長となりました。
 東洋乾板株式会社は、技術の向上を重ねながら、国産乾板を製造しましたが、その後、1926年(大正15年)の大日本セルロイド株式会社との提携を経て、1934年(昭和9年)に設立された富士写真フイルム株式会社に合併統合され、同社発足の礎となりました。 
 「富士フイルム50年のあゆみ」では、大正8年2月の東洋乾板株式会社の創立、同年9月の大日本セルロイド株式会社の創立をもって、「当社の歴史は、事実上、この年、この両社から始まった」としています。
  
 
東洋乾板社員 (大正10年4月、花見の日に工場の前にて)
 手前のシルクハットの男性が高橋慎二郎

  
東洋乾板の関係者
左より、高橋慎二郎、作間政介、
菊池恵次郎、嶋村足穂
(冨士フイルム提供)
 
東洋乾板株式会社全景(昭和4年頃)
手前が研究所、中央が新工場、左奥が旧工場、その右がガラス洗い場、右手前が事務所、右奥が食堂

1918年
(大正7年)
江口信行氏の紹介で、菊池恵次郎氏と会い、国産乾板製造への支援を依頼。
(注)菊池恵次郎氏は、愛媛県八幡浜出身の資産家で、東京帝国大学法科を卒業後、実業家となる。会社創立準備が整うと、留守中を弟の菊池清治氏に委任し、ブラジルの開拓事業のため渡航。子息の菊池真一氏は、写真化学の化学者として、東大教授を経て、東京写真大学(東京工芸大学)の学長を勤めた。
1919年
(大正8年)
2月11日
東洋乾板株式会社設立
(東京府北豊島郡高田町大字雑司ヶ谷626 (現在の東京都豊島区南池袋2丁目40
 →当時の雑司が谷周辺地図と現在の状況   → 当時の地図その2

(資本金) 20万円
(発起人) 菊池清治(1000株)、菊池清太郎(300株)、長山竹一郎(200株)、内海正(150株)、藤本友信(100株)、高橋慎二郎(100株)、清水岩次郎(100株)等
(役員) 社長:菊池恵次郎、専務取締役:辻 宏(恵次郎氏の親友の事業家)、取締役技師長:高橋慎二郎、取締役:浅井記博(恵次郎氏の親友)、監査役:内海正(印刷業関連)、監査役:長山竹一郎(清治氏の従兄)
(株主) 上記役員の6名のほか、菊池家から、菊池清治(恵次郎氏の弟)、菊池清太郎(菊池家の本家)、菊池又八郎(清太郎氏の分家)、菊池福治郎(清治氏の分家)、菊池愛子(清治氏の夫人)、菊池富次郎(清治氏の従弟)、菊池武城(清治氏の叔父)、清水岩次郎(清治氏の従兄の長山家の人)。菊池氏の友人で佐々木長治(愛媛の資産家)。藤平長門(新潟の富豪)、結城林蔵(写真化学の教授)、小平勝治(従業員で元陸軍化学研究所の技術員)。野村敬六、木村林次郎、内海正一
(従業員) 小平勝治、塚本正駿、小川潔、永江博、高橋洗二、中村仁一郎、菊池友太郎、女工10名
(工場) 180坪(煉瓦造1棟60坪。写場、機械室、ガラスクリーニング室、計52坪。事務所24坪。ガラス貯蔵室、食堂、宿直室、計24坪)
1919年夏
(大正8年)
工場の上棟式を行った。
1920年秋
(大正9年)
新工場も出来上がり、生産も増加。
当初の乾板は、「ネルソン」、「ロイド」などの名称を付けて出荷。
1921年
(大正10年)
1月
慎二郎の名をとった「ST乾板」を発売。品質も上がり、量産を契機に軌道に乗る。
 東洋ST乾板
1921年
(大正10年)
11月1日
高橋慎二郎が、本籍を、新潟県新潟市東堀前町通9番町の高橋家から分家し、当時の居宅であった東京市小石川区大塚坂下町85番地(現在の文京区大塚6丁目)に移す。
1923年
(大正12年)
9月1日
国産乾板を常用してくれる写真師は少なく、在庫が積み上がっていたところ、関東大震災により、原料ガラス、薬品をはじめ、大量の在庫乾板が粉砕。大損害を受ける。ブラジルで事業経営中の菊池恵次郎が急遽帰国し、菊池清治に代わって社長となる。
(注)もともと、菊池清治は、教職の傍らであり、経営は辻専務が統率していた。社長を引いてからは、広島高等学校校長として赴任。
その後、プロセス乾板、整色性赤札、HD400度青札、HD700度白札など、従来のHD300度赤札に加えて、種類を増やし、販路も増やした。また、帝都の復興につれて、事業は発展し、従業員の数も増えた。

東洋パンクロ乾板    東洋プロセス乾板
1925年
(大正14年)
2月頃
営業方面に、菊池社長と同郷の永長重吉が入社。
3月13日 菊池社長と同窓の加来佐賀太郎氏(元台湾民政長官)が、東洋乾板を来訪。その仲介で、大日本セルロイド(大阪堺市、森田茂吉社長)が、東洋乾板への出資援助の交渉を開始することとなった
1926年
(大正15年)
7月
大日本セルロイド株式会社は、東洋乾板に、10万円を出資。
東洋乾板には、大日本セルロイド技師の作間政介氏が専務取締役として、同社専務の島村足穂氏が監査役として、それぞれ入社。
一方、大日本セルロイドとしても、映画用フイルム製造試験を開始することとなり、フイルム生地の製造試験のため、8万円を別に投じて、東京板橋志村の大日本セルロイド東京工場敷地内に、フイルム試験所を建設。感光剤の製造を、東洋乾板の研究に委ねることとし、施設設備を増設することとした。フイルム試験所の主任に、春木栄氏(後に足柄工場長、その後、冨士写真フイルム第2代社長)。
11月3日 商工省から工業奨励金1万円を受ける。
その後、高感度、航空用パンクロ赤外等の乾板を発明し、出願申請のたびに許可され、その都度、奨励金交付の恩典に浴した。
12月1日 東洋乾板ニュースの創刊。その後、4号(昭和4年2月20日)より、月刊誌となり、営業写真家に発送された。
東洋乾板ニュース第2号(昭和2年)(PDF2729kb):「写真乾板の製造工業について」「乾板の感光度とその測定法の話」「ゼラチン乳剤とゼラチン乾板の歴史」「写真乾板中の臭化銀粒子」「商工省研究奨励費の効果」などの記事
1927年
(昭和2年)
 1月末に工場増設の地鎮。半年後に竣工。 (写真は、東洋乾板ニュース第2号(昭和2年)より)
   
 新工場の一部  新写真科学研究所
また、東洋乾板では、それまで、一度使った古乾板の膜を剥がして再び新乳剤を塗布して作っていたが、この頃から、古乾板ガラスでは元の画像が出る不具合(ゴースト)が出やすいので、新ガラスに変更した。
1928年
(昭和3年)
4月に、監査役の島村足穂氏が急死し、5月、後任に浅野修一氏が就任
(浅野氏は、後の富士フイルム株式会社の初代社長)
1928年末
(昭和3年)
高橋慎二郎は、東洋乾板の取締役技師長を辞任。

高橋慎二郎退社後の東洋乾板株式会社
1929年
(昭和4年)
6月
新硬膜剤による「東洋トロピカル乾板」を発売。
膜質が強固で、酷暑の候でも不安なく使用できた
1930年
(昭和5年)
11月
写場用、人像専用の高速度乾板として、「東洋スタヂオ乾板」を発売。
1932年
(昭和7年)
3月
パンクロ乾板を発売
8月 赤外線乾板を発売(東洋エクストリーム、レツドセンシテイブ乾板)。
12月  大日本セルロイドでは、神奈川県の南足柄に、新工場建設のための用地を買収し、建設計画を正式決定。
1933年
(昭和8年)
昭和8年4月発行の東洋乾板ニュース第54号(PDF6044kb)で、神奈川県下足柄山麓に建築中の新工場を、写真付きで伝える。
 8月の写真月報で、「大日本セルロイドの手によって、目下神奈川県小田原在下足柄郡に工場を建設中で近く竣工の運びに至り、将来、乾板、印画紙、フイルム、フイルムベース等を生産販売する由にて、工場落成後に東洋乾板と大日本セルロイドは合同して、富士写真工業株式会社という会社になる」と伝えられる。
1934年
(昭和9年)
1月
大日本セルロイドの出資により、「富士写真フイルム株式会社」が資本金300万円で設立され、大日本セルロイドの写真フイルム部は解消。
 社長に浅野修一氏(大日本セルロイド専務取締役)、常務取締役に作間政介氏(東洋乾板専務取締役)、取締役に菊池惠次カ氏(東洋乾板社長)など、役員に大日本セルロイドと東洋乾板の役員が参画して発足。 
6月 6月10日に、かねてからの合意に基づき、富士写真フイルムが東洋乾板を吸収合併し、統合。統合後は、同社を冨士写真フイルムの雑司ヶ谷工場とし、従業員は全員移籍。
1935年
(昭和10年)
5月24日
東洋乾板株式会社の解散登記を完了
 その後  冨士写真フイルムの雑司ヶ谷工場は、その後も引き続き乾板の製造を行っていたが、足柄工場での乾板製造が軌道に乗るとともに、これらの製造を中止し、以後、ロールフィルム加工工場として再出発し、16ミリ映画の現像も行った。
 昭和22年に雑司ヶ谷工場は閉鎖となり、その後、建物は、事務所や学校などにしばらく使用された。 
  電通映画社の雑司が谷現像所は、この建物に置かれた。また、 1955(昭和30)年、持永只人と稲村喜一による人形映画製作所(日本初の人形アニメーション製作会社)が設立され、1960(昭和35)年までの間、スタジオを電通映画社雑司が谷現像所内に置いた。


(参考)1923年(大正12年)11月30日「国民新聞」(「復興の第一線から」連載記事)への慎二郎の寄稿
記事切り抜き

勝てよ世界の商戦に産業立国の日本を創造せよ 東洋乾板株式会社技師長 高橋慎二郎

産業立国の新日本を創造する事は刻下の急務である世界孰れの国を見るも侵略を主とし産業を軽視した国は亡び或は劣等国に懊悩して居る、英国を見よ米国を見よ彼等は産業助長発展の為に如何に不断の努力を為しつつあるかを日本は従来侵略を主眼とせざる迄も軍国主義に偏重して居た事は現在も変りは無い、其の結果は五大強国の一と称するも産業は遅々として振わず輸入超過は恰も常の状態なるかの観あり物価騰貴は国民を疲弊せしめ日本帝国は全く行詰りの現状である、
若し震災を以て禍を転じて福となすならば日本をして産業立国の新帝国たらしめては如何、勿論産業立国と謂う以上は眠れる商工業者に警鐘を聞かしめ国民亦国産愛用の念を喚起せざる可らず徒らに外国品を崇拝する旧習を一掃せよ、吾人先ず国産を信用愛語する事に依って日本商品の権威を発揮す可し而して始めて世界の一大商戦に勝利の光栄を獲得す可し、之れ日本をして富国ならしめ国威発揚となる、即ち産業を主に軍国を従たらしめ官民一斉に目醒めて産業の振興に努力す可し振興の成否は政府当局の重大なる責任であると同時に国民も亦国産奨励と愛護に忠実なるを要す、斯くして創造された日本は内容充実となり学術の進歩を促し文明の威力も発揮を富める国たらしむ可き事である然らざれば五大強国の一ツと誇るも夫れは自己推賞に止って日本の前途寒心に耐えざるもの独り識者に限らざる可し、
人或は我田引水と謂うも可なり、少しく予が立脚地よりして国産奨励の必要を例証せんとす、予が高等工業を出で外国を歴遊して日本に写真乾板の製造を志して研究に没頭し十五年を経過して五年前雑司ヶ谷に現在の東洋乾板株式会社を創立し社長菊池恵次郎君と提携して今日に至る迄社長は幾万の資金を蕩尽して予が乾板製造の完成に努力せしめたり。此の間臥薪惨憺筆絶の他であった而も菊池君の度量は徒労に帰せずして漸く日本に於ける唯一の写真乾板製造を為すに至った、
然るに震災は栄華の都を焼き尽した、有体に云えば震災前東洋乾板を使用する者は全国写真館の多くで一般材料貿易商店等は東洋乾板に一瞥を与えなかった、然し敢て之れが使用の強要も為さず益々改良進歩に没頭中であったが震災の為めに外国品払底となるや従来取り引きせざりし全国の大商店より見本の請求あり其語意外にも註文引続き跡を絶たず此の現状を冷静に観察すれば技師としての私は寧ろ悲哀を感ぜざるを得ないのである換言すれば日本人は外国品に眩惑し内地品を軽視する慣習は写真乾板の例に止まらず乃ち国産愛用の観念に乏しき事を立証するに他ならない彼等が見本を取り寄せて舶来品と遜色無きを始めて知り斯くは取り引きを開始せるは勿論である又舶来品を販売する利益の点は日本品は(一)相場が一定して居るが舶来品は消費者が事情を知らない即ち相場の変動激しき為め又為替の関係上等より舶来品を売る事は此の間莫大なる利益が潜在するからである
日本の生産業者は常に製造品に不断の努力と進歩改善を忘れず而も大量生産に依って安価に提供すれば決して今日の如き内地産業の不振は招かざる事は明である要するに生産業者も震災を以て新世紀として一大自覚と発奮を為し消費者も亦国産奨励の愛国心を以て舶来品を過信せず斯くして海外商戦に一等国たらしめば産業立国の日本は創造さるる訳であるから事に此際考慮されたいと思う且又私の製品に対して一掃改良す可き点を発見された際は指摘して御教示を願いたい是れ即ち国産発達であり愛国心の発露であろうと信ずるのである


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