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3.東洋乾板株式会社の設立高橋慎二郎は、資産家の菊池恵次郎の支援を得て、1919年(大正8年)2月11日、現在の東京都豊島区雑司雑ヶ谷に、東洋乾板株式会社を設立し、その取締役技師長となりました。東洋乾板株式会社は、技術の向上を重ねながら、国産乾板を製造しましたが、その後、1926年(大正15年)の大日本セルロイド株式会社との提携を経て、1934年(昭和9年)に設立された富士写真フイルム株式会社に合併統合され、同社発足の礎となりました。 「富士フイルム50年のあゆみ」では、大正8年2月の東洋乾板株式会社の創立、同年9月の大日本セルロイド株式会社の創立をもって、「当社の歴史は、事実上、この年、この両社から始まった」としています。
高橋慎二郎退社後の東洋乾板株式会社
(参考)1923年(大正12年)11月30日「国民新聞」(「復興の第一線から」連載記事)への慎二郎の寄稿 →記事切り抜き 勝てよ世界の商戦に産業立国の日本を創造せよ 東洋乾板株式会社技師長 高橋慎二郎産業立国の新日本を創造する事は刻下の急務である世界孰れの国を見るも侵略を主とし産業を軽視した国は亡び或は劣等国に懊悩して居る、英国を見よ米国を見よ彼等は産業助長発展の為に如何に不断の努力を為しつつあるかを日本は従来侵略を主眼とせざる迄も軍国主義に偏重して居た事は現在も変りは無い、其の結果は五大強国の一と称するも産業は遅々として振わず輸入超過は恰も常の状態なるかの観あり物価騰貴は国民を疲弊せしめ日本帝国は全く行詰りの現状である、若し震災を以て禍を転じて福となすならば日本をして産業立国の新帝国たらしめては如何、勿論産業立国と謂う以上は眠れる商工業者に警鐘を聞かしめ国民亦国産愛用の念を喚起せざる可らず徒らに外国品を崇拝する旧習を一掃せよ、吾人先ず国産を信用愛語する事に依って日本商品の権威を発揮す可し而して始めて世界の一大商戦に勝利の光栄を獲得す可し、之れ日本をして富国ならしめ国威発揚となる、即ち産業を主に軍国を従たらしめ官民一斉に目醒めて産業の振興に努力す可し振興の成否は政府当局の重大なる責任であると同時に国民も亦国産奨励と愛護に忠実なるを要す、斯くして創造された日本は内容充実となり学術の進歩を促し文明の威力も発揮を富める国たらしむ可き事である然らざれば五大強国の一ツと誇るも夫れは自己推賞に止って日本の前途寒心に耐えざるもの独り識者に限らざる可し、 人或は我田引水と謂うも可なり、少しく予が立脚地よりして国産奨励の必要を例証せんとす、予が高等工業を出で外国を歴遊して日本に写真乾板の製造を志して研究に没頭し十五年を経過して五年前雑司ヶ谷に現在の東洋乾板株式会社を創立し社長菊池恵次郎君と提携して今日に至る迄社長は幾万の資金を蕩尽して予が乾板製造の完成に努力せしめたり。此の間臥薪惨憺筆絶の他であった而も菊池君の度量は徒労に帰せずして漸く日本に於ける唯一の写真乾板製造を為すに至った、 然るに震災は栄華の都を焼き尽した、有体に云えば震災前東洋乾板を使用する者は全国写真館の多くで一般材料貿易商店等は東洋乾板に一瞥を与えなかった、然し敢て之れが使用の強要も為さず益々改良進歩に没頭中であったが震災の為めに外国品払底となるや従来取り引きせざりし全国の大商店より見本の請求あり其語意外にも註文引続き跡を絶たず此の現状を冷静に観察すれば技師としての私は寧ろ悲哀を感ぜざるを得ないのである換言すれば日本人は外国品に眩惑し内地品を軽視する慣習は写真乾板の例に止まらず乃ち国産愛用の観念に乏しき事を立証するに他ならない彼等が見本を取り寄せて舶来品と遜色無きを始めて知り斯くは取り引きを開始せるは勿論である又舶来品を販売する利益の点は日本品は(一)相場が一定して居るが舶来品は消費者が事情を知らない即ち相場の変動激しき為め又為替の関係上等より舶来品を売る事は此の間莫大なる利益が潜在するからである 日本の生産業者は常に製造品に不断の努力と進歩改善を忘れず而も大量生産に依って安価に提供すれば決して今日の如き内地産業の不振は招かざる事は明である要するに生産業者も震災を以て新世紀として一大自覚と発奮を為し消費者も亦国産奨励の愛国心を以て舶来品を過信せず斯くして海外商戦に一等国たらしめば産業立国の日本は創造さるる訳であるから事に此際考慮されたいと思う且又私の製品に対して一掃改良す可き点を発見された際は指摘して御教示を願いたい是れ即ち国産発達であり愛国心の発露であろうと信ずるのである ⇒次へ |