1928年末
(昭和3年) |
高橋慎二郎は、東洋乾板の取締役技師長を辞任。
住居を京橋に移した後、自宅を事務所として、35ミリ不燃性ポジフィルム製造所の設立に奔走。 |
1931年春
(昭和6年) |
慎二郎は、岡田裕二、木村彰夫ほか8名とともに、組合を組織。
水質の良い地点として選んだ東京府北多摩郡久留米村門前328番地に、工場を建設することとした。 |
1932年
(昭和7年) |
「高橋写真フイルム化学工場」が完成。
フランスからフイルムベース10万フィートを購入し、35ミリ不燃性ポジフイルムの製造を行った。 |
1935年
(昭和10年) |
再製35ミリポジフイルムの製造を開始。フイルムの生地全面に乳剤を塗布し、冷却後パオレーション部分の乳剤を吸引する方式をとった。
月産20万フィートを水中化学工業所(水中正秀)を通じて販売。 |
1937年
(昭和12年) |
昭和12年7月の日華事変の影響により、フランスよりのフイルムベース輸入が漸次悪化の一途をたどり、入手困難となった。このため、専ら再製ポジフイルムの製造を行った |
1941年
(昭和16年) |
小型カメラ用の「興建フィルム」の製造を開始。ブロニー、ベストの2種類。市販の結果は良好で、月産2万本を生産。 |
1943年
(昭和18年) |
昭和16年12月に始まった太平洋戦争の激化のため、フイルムベースや薬品類の入手難が困難を極めたことから、昭和18年6月に、決議により組合組織を解散し、出資者全員に対して、2割の配当を付して出資全額を返還。工場は、高橋慎二郎個人の経営に移し、興建フィルムの製造も中止。
慎二郎は、間もなく、陸軍科学研究所の特別の依頼を受け、機密用特殊フイルム及び印画紙の研究にとりかかり、製品の秘密製作を開始した。製品は、諜報機関の使用するもので、特殊の現像処理を加えて後、映像を現すもの。ライカ、ブローニー、印画紙の三種類の製品があり、「多摩」と名付けた。これは、昭和20年の終戦まで続けられた。 |
1946年
(昭和21年) |
日華事変当時から出征していた長男の高橋真一が戻る。 |
1949年
(昭和24年) |
次男の高橋清が、東京写真専門学校を卒業して、社業を手伝うようになる。 |
1954年
(昭和29年) |
慎二郎が、6月1日の写真の日に、日本写真協会より表彰を受ける。 |