1.高橋慎二郎のおいたちと青年期

 高橋写真フイルム研究所の創業者である高橋慎二郎は、1879年(明治12年)の7月1日に、新潟に生まれました。
 祖父の高橋栄蔵は、外国の珍しい品物を商う唐物商と時計商を営む家で、印刷業も営み、慎二郎は、そのような中で、写真技術に興味を持ちました。
 慎二郎は、東京、下関、長崎、ウラジオストック、東京の写真館を転じながら高い写真技術を身につけ、写真乾板(写真フイルムができる以前の写真を写す感光材料でガラスを支持体とするもの)の国産化に意欲を持ち、研究に没頭するようになりました。
若い頃(左) 玉水館(東京両国薬研堀)
(左から二人目)
大正2年1月11日 晩年
幕末 新潟の東堀前通九番町に「高橋栄蔵」あり。栄蔵は、唐物商と時計商を営む傍ら、珠算をよくし、研究の結果、亀井算という珠算の書物を著した。
1878年
(明治11年)
栄蔵が、亀井算の著書を印刷するため、東京から印刷機を取り寄せた。この印刷機械が基礎となって、後の株式会社高橋活版所の事業へ継続される。
1877年
(明治10年)
8月
栄蔵が、東京の上野公園で開かれた第一回内国勧業博覧会に、自製の直径6尺3振の振子時計を出品
1879年
(明治12年)
栄蔵が、「亀井算法(上、下)」を、仲見堂より出版。
1879年
(明治12年)
7月1日
栄蔵の長子の「高橋賢三郎」(後に中原姓を継ぎ中原賢三郎という)の二男として、「高橋慎二郎」が生まれる。
高橋家は広い屋敷に白壁の土蔵が幾棟も建つ新潟の旧家で、慎二郎は、乳母の手により育てられた。
(注)祖父の名をとった長男の栄蔵は早世した。
1890年頃
(明治23年)
慎二郎が11〜12歳の頃、印刷機がならぶ工場内で、煙花の火薬を爆発させる事件を起こす。その後、安全な遊びとして、写真機いじりを家人から許された。これが慎二郎が生涯を写真に捧げる端緒となる。
1892年頃
(明治25年)
慎二郎が13歳の頃、子弟を他家に預けて修行させる当時の新潟の商家の風習に従い、三条町の呉服商の土勇(どいう)に預けられ、3年間、呉服屋の見習店員として過ごす。
その間、三条町にあった水野写真館の水野文平とも親しくなり、写真技術の教えを受けた。写真機械を自分で作るようになる。
(注)明治27年、28年は、日清戦争の世情。
1895年頃
(明治28年)
慎二郎が16歳の頃、一旦呼び戻され、新潟市内の富山時計店に移った。同店の主人の富山文蔵は、時計商を営んでいた高橋栄蔵の門人。慎二郎は、ここで、時計の組立や修繕の技術を学び、機械の知識を豊かにした。
このころ、和田写真館、金井写真館、朝倉写真館などの新潟で一流の写真館に出入りし、知識を充実させた。当時は英国製のマリオン乾板の全盛時代で、印画紙は鶏卵紙を使用。
1899年夏
(明治32年)
慎二郎が20歳の夏、東京へ上京。本郷西方町に一時居住していた父の中原賢三郎を訪ね、写真館の紹介を頼み、お茶の水の玉翠館(気賀秋敏)に入館し、そこで3年間にわたり、写真の修行を積んだ。
1902年頃
(明治35年)
知人の紹介により、下関の関門写真館(内田慶二郎)の修正技師として入館。そこで1年ほど勤務。
1903年頃
(明治36年)
関門写真館が全焼し、内田も他界。同館の技師の紹介により、高名な長崎の上野彦馬(上野写真館。長崎市新大工町72番地)を訪ね、その紹介により、その門下の竹下写真館(竹下佳治。長崎市石灰町)に修正技師として入館。そこで2年ほど勤務。
1905年頃
(明治38年)
知人の依頼により、ロシアのウラジオストックに渡り、森竹写真館(森竹十郎。ペキンスカヤ街)へ1年間勤務。
(注)日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日〜翌年9月5日。
1906年頃
(明治39年)
ロシア人のサヴェリエフの経営するスタジオに招かれて勤務。
1908年頃
(明治41年)
ロシアにわたって3年目。溜った貯金を使って、シベリア鉄道でモスクワ数日間のモスクワ観光に赴く。
帰ってから森竹写真館に戻り、ほどなく、下関経由で、東京に上京し、本郷に下宿
1909年頃
(明治42年)
日本橋楽研堀の玉水館(上野英雄が経営。気賀秋敏の玉翠館の支店)の主任技師として就職し、3〜4人の助手を使い、撮影のかたわら写真の修整にも腕を振るった。
その頃の第一回大丸写真展覧会で、出品した写真印画が、優等に入選。
1911年頃
(明治44年)
2年ほどたつうち、輸入品で不足がちであった乾板の国産化に意欲を持ち、研究に没頭。そのため、昼は玉水館の主任技師として働きながら、夜は、蔵前の東京高等工業学校(現在の東京工業大学)にあった写真化学の夜学に通い、写真界の権威であった結城林蔵教授に学んだ。
(注)結城林蔵は、後に1923年(大正12年)設立の東京写真専門学校(現在の東京工芸大学)の校長となる。
慎二郎は、館主上野英雄のすすめで、結婚し、日本橋区横山町に新居を構えた。昼は玉水館に勤め、夜は自宅を研究室として研究した。

⇒次へ