2.高橋写真乾板研究所の設立

 高橋慎二郎は、写真館を渡り歩きながら高い写真技術を身につけると、写真乾板の国産化に意欲を持ち、研究に没頭するようになりました。
 そして、1914年(大正3年)に、今の東京都豊島区の雑司ヶ谷の地に、「高橋写真乾板研究所」を設立し、乾板製造に着手しました。

1912年
(大正元年)
慎二郎は、玉水館の上野英雄館主の没後、乾板製造の研究に専念するため、玉水館を辞職。
1913年
(大正2年)
慎二郎は、家並みもまばらで緑にかこまれた東京府北豊島郡高田村大字雑司ヶ谷町147番地(現在の豊島区南池袋2丁目41番)に転居
1914年
(大正3年)
慎二郎は、雑司ヶ谷墓地側の東京府北豊島郡高田村雑司ヶ谷114番地(現在の豊島区南池袋4丁目23番)に、「高橋写真乾板研究所」を設立。新潟の高橋鋭二、富山文蔵、高橋忠作の三氏より出資を得た。
木造建坪32坪。所内には、コーティング機、乾燥機、古乾板クリーニング機、電動機も備えた。小平勝治、高城庫吉、女工1人の3名の助手を雇い、乾板製造に着手。
1915年
(大正4年)
11月20日
一応の水準に達した乾板が完成したことから、慎二郎は、乾板の販売を、神田淡路町セーレス商会の支配人であった江口信行氏に依頼し、販売契約を交わした。「サクセス乾板」と命名して販売。
1916年
(大正5年)
興業銀行より、2千円の融資を受ける。(大正5年11月24日及び翌年5月2日)


(参考) 雑司ヶ谷について
  • 雑司ヶ谷村は、元弘建武の頃、禁中の雑司である柳下若狭、長島内匠、戸張平次左衛門などが土着したことから名づけられたとする説が有力だが、法明寺の雑司料(収穫した作物を寺院に納める土地)であったからとする説、小日向金剛寺の雑司料であったからとする説もある。古くは雑司谷、蔵主ヶ谷、曹司ヶ谷とも書かれた。
  • 明治維新後も、「雑司ヶ谷村」は存続していたが、一部は寺社や藩邸の土地となっていた。1872年(明治5年)、鬼子母神門前などの寺社や藩邸の土地を合わせ「雑司ヶ谷町」、鷹匠組屋敷や寺社などの土地を合わせ雑司ヶ谷旭出町とした。     
  • 1889年(明治22年)の市制町村制の施行により、北豊島郡高田村、高田千登世町、高田若葉町、雑司ヶ谷村、雑司ヶ谷旭出町と小石川区高田豊川町、雑司ヶ谷町、さらに巣鴨村、小石川村、落合村の一部が合併され「高田村」となる。 (→雑司ヶ谷村は、高田村大字雑司ヶ谷に、雑司ヶ谷町は、高田村大字雑司ヶ谷町となる)
  • 1920年(大正9年)、高田村が町制施行し「高田町」となる。 (→高田町大字雑司ヶ谷、高田町大字雑司ヶ谷町)
  • 1926年(大正15年)、郡制廃止により北豊島郡役所が廃止され、東京府直轄となる。
  • 1932年(昭和7年)、東京市編入により、高田町は巣鴨町、西巣鴨町、長崎町とともに「豊島区」となる。その際、町名及び町区域の変更が行われ、大字雑司ヶ谷、大字雑司ヶ谷町の大部分は、雑司ヶ谷町1〜7丁目となる。
  • 1956年(昭和31年)の町名・町区域変更と、1964年(昭和39年)の住居表示施行に伴い、雑司ヶ谷町4〜7丁目は、南池袋1〜4丁目等となり、雑司ヶ谷町1〜3丁目等が、雑司ヶ谷1〜3丁目となった。
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